http://www.asahi.com/national/update/1111/008.html
http://page.freett.com/tekkin1989/kunimoe/kouginaiyou.html
下に挙げたページには、
南京虐殺がないと思ったらそう言えば良く、歴史学者本宮ひろ志が間違っていると思ったら間違っていると言って良いのです。フィクションでなくてもです。これが『言論の自由』というものです。」
「ましてやフィクションの歴史漫画が、諸説のうちの一つを選択してストーリーに組み入れることの何が悪いのでしょうか? 少数説だろうと完全に自分で考えた話だろうと、フィクションの展開をどうしようと作家の自由のはずです。」
とある。自分もまったくそう思うし、抗議した側(要するに、自分たちの見解を対抗言論として補強することをろくにせず、代わりに自分と見解を異にする者を物理的に黙らせることを選んだ者)は、そういった当たり前のことが理解できていないように思える。抗議に名を連ねている地方議員たちは、本職の職場でも、反対者に抗議して発言を撤回させ、議題に乗せること自体を阻止する、といった行動の繰り返しで議事を仕切っているのだろうか。
「ましてや『国が燃える』は歴史学の常識的な説を採用しています」とのことなので、問題は一層大きいと思う。