幸い仕事の前倒しができたので、この日はニッポン放送株主総会押井守座談会と、娯楽三昧の日にできた。(その後爆睡。)
 
総会の方は、もともとの主役が退き、あとは個人株主の詮ない憂さ晴らしだけになってしまったけれど、それでも絵に描いたようなヤジと怒号の株主総会を見られたし、村上世彰氏も見られて面白かった。
そういえば彼は、上場に値しない会社が上場廃止に向かうことそれ自体は大変結構である、と言っていた。これはつまり、株主への途が一般に開かれていない株式会社があってもよいということで、もっと一般的に言って、企業防衛という概念自体も否定しない立場なのだと思う。この点は大方の商法学者の考え方とも一致しているらしい。けれども、官界ばかりか民間も私的官僚制が跋扈する官僚主権国家だと言われるこの国では、企業防衛という言葉の意味はもっと突き詰めて考えられるべきだと、自分は思っている。企業防衛とは、何を何から守ることなのかと。この会社の事件に教訓を得たとする会社(の経営陣)が次々と「企業防衛策」なるものを打ち出しているけれども、これをもって「一番得をしたのは日本」と本当に言えるのだろうかと。
 
押井守座談会の方は、英語字幕つきの"AVALON"を鑑賞したあと、日本人・カナダ人の2人の社会学者と座談するというものだった。学者の問題提起はいつか聞いたことのあるようなものだったが、押井守の回答はいつもより具体的だったと思う。彼の映画の主人公がいつも、権力、というか暴力を行使する立場の者である理由について。映画の技法の、あるいは映画そのものの暴力性について。映画制作現場の暴力性について(笑)。
ぼくはこの人のファンではあるけれど、この人の映画については、映像や音楽が美しく濃密で、映像にも台詞にも寓意がてんこ盛りな割には、そういったものを使って訴えているメッセージ自体はずいぶん薄っぺらいよな、というイメージだった。単なるだまし絵のようなものを意味ありげに出してきているだけ、といったイメージ。今でもそのイメージは基本的にはある。けれどもこの前の「イノセンス」を観て以来、この人が映像、音楽、台詞その他の記号を使って訴えたいことは、実はそういった記号の集まりから通常読解できるものとはまた全然別なもので、それは読解するのではなくあくまでも体感することでしか得られないものなのではないか、という気がしてきていた。この日改めて"AVALON"を観て、話を聞いて、やっぱりそうなのかもと感じた、というか、理解の隙間を埋めるものをまた少し得られたような気がした。その内容を文章にするのは・・・なにぶん体感するしかないものってことで、自分には難しいけれども。
しかし、押井守の日本語を英語に通訳すると、長い、長い。日本語はやはり効率のいい言語なのかも。