憲法の説明、ドイツ仕込みのA教授とアメリカ仕込みのB教授とでは結論からしてちがい過ぎ理解できない、という話を他人からも聞いた。やっぱりみんなそう思っているんだろう。それを言った彼は両人の本年度の講義までみっちり比較してそう言ったようで、自分にはとても追いつけるレベルではないけれど、まあ自分でも自分なりに何か思うことは思う。

両人間ではどういうやりとりがあるのかということでは、どこぞに書いてある話だと、Aが「憲法判例に関するBの議論は“狭義の説明”であって“了解”ではなく、外的説明に終始している」と指摘したのに対し、Bは「外的と言われようと説得できると思っている」と答えたとのこと。「説明」というものにそういう2種類があるという分類自体は、おそらく閉じたルールの体系をよりよく「説明」する上では有意義だろうし、別の科目では「判例を内在的に理解せよ」なんてことも言われたけれども、そもそも憲法判例がその“了解”というやつを追求して読まれるべき物、ないしはそう読んだ方がよい物なのか、という風に大前提を疑う作業は、実はきちんとやられていないんじゃないかという疑惑も感じる。

英米法の考え方だと、法廷で事件に向き合っているわけでもない者が判例の論理を体系化して勝手に観念の城を築く、といった行為には非常に消極的だそうだ。そういう意味ではA教授の批判はいかにもドイツっぽく、B教授の反論はいかにも英米っぽいと思った。ドイツ観念論vsイギリス経験論、みたいに簡単に括ってよいのかは知らないが、人間の理性に対する過信を警戒しているという点では英米法的な態度のほうが優れていると自分は思う。ドイツ由来の観念的な議論を聞くと、いつもなにか話の大前提を怪しく感じる、という思いもあるし。