刑事事実認定に関して。供述者が「不合理な」弁解をしたら追及せざるを得ないし、その供述は割り引いて考えざるを得ない。それはそうなんだが、人間が「不合理な」存在であることを考えれば、「不合理」である、ということの意味も、この言葉が使われる場面に応じて考え直さなければならないはずだと思う。しかしこの言葉は、「客観的な証拠に符合しない」という意味で使われることもある一方(まあ、この「符合」という概念も甘くとらえるとどうしようもなくなる曲者だと思うが)、「常に合理的な言動をする人間ならばしないはずの言動である」ということしか意味していない場合もある(そしてここにいう「合理的」の意味も、トートロジーの要素を含んでいてとらえ難い)。常に合理的な言動をする人間ならばしないはずの言動をした、という供述が取調べ中に出てきたら、本当にそうなのか、と問い質さざるを得ないが、結論として「そのような言動はあり得ない、だから実際にはしていなかった」と認定することは、まあ民事だったらともかく、刑事裁判で必要な「『合理的な』疑いを超えた証明」といえるのか。そこに「合理的」という言葉の意味のすり替えはないのか。 …てなことを5月の末に思いましたとさ。

本を読むのが苦手な自分も、戦後の、1970年代までの文章は比較的すんなり読めることに気付いた(気付いたのは何度目かのような気がするが…ならもっと読めよ自分…)。現実逃避のために行った京都で衝動買いした古本を、現実逃避のために読んで、そう気付く。今の文章よりロジックが丁寧に追われていて、必要な予備知識も少なくて済む、というのが原因なような気がしているが、実際はまったく逆なのかもしれないし(たとえば、すぐ分かった気になれる文章であるに過ぎないのかもしれない)、よく分からない。

ローマ教皇が、「東日本大震災で被災した日本に住む7歳の少女の「なぜ子どもたちはこんなに悲しまなければならないのですか」という質問に公開で答えるらしい。彼らの立場からの"love the world"の意味の一端が説明されることになるんだと思う。しかしこんどの教皇やっぱ顔がちとこわい。
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(2011.4.23追記)「私も同じように『なぜ』と自問しています。いつの日かその理由が分かり、神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。私たちは苦しんでいる全ての日本の子どもたちと共にあり、祈ります」ローマ教皇の回答。

放射能汚染に恐れをなして職場放棄する人は都内にもいて、その無責任を責める話というのが出回ったりもするが、ここまで状況の深刻さが明らかになってくると、自分としては、職場から逃げたからといってその人を責める気にもならない。