今日は野球か。私は、ウィリアムスが出てくる展開になったらウィリアムスを応援することにする。かっこいいから。ていうか、そういう展開なら日本はもうノーチャンスでしょ。
 
「ウィリアムス」と書いたらピンボール屋さんウィリアムスのキーワードにリンクした。ピンボール、すっかりなくなってしまいファンとしては寂しい。ウィリアムスだけでなくバリーもゴットリーブも見なくなった。
ピンボールは、ビデオゲームと比べるとまず何と言ってもあのメカニカルな感じが良い。また、スクロールや制限時間に追われることがなく、種々用意してある役のうち好みのものをルートに従ってじっくり攻略すれば、それぞれに達成感が味わえる。また、不器用な自分でもそれなりに練習し、台も選べば、百円玉1枚で半永久的に遊べるようになれるので、それも良かった(ゲームセンターの人にとってはそれが良くなかったのかもしれないが)。
どうして人気がなくなったんだろう、と考えると、一つ思い当たるのが、以前ボストンに行ったときの現地人の反応。あれは悪ガキのする遊びである、というイメージがあるようなのだ。まあ実際かの地ではピンボールのある場所は悪ガキの遊び場になっていて、彼らにからまれたりもした。米国人がピンボールに抱くイメージをこんな一面だけで推し量るのはもちろん乱暴だが、そういう要素もあるのかもしれない、とは思った。
 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040824-00000008-san-pol
「首相の靖国参拝違憲」と判決理由に書くことは越権行為であり、裁判官の罷免事由にあたる、という主張。あくまで事案に関連した法解釈を示したものなので、結局は罷免されないと思うし、そもそも訴追に至らないと思う。が、ちょっとおもしろいと思った。
仮に純然たる政治的主張を書いたとして、判決理由には拘束力がないのだから越権ではない、と単純には言えないだろう。裁判官の権威を利用して自分の発言の(事実上の)社会的影響力を持たせようとするのは一種の越権だ、という理屈も成り立ちそうだから。しかし、もしそのような理屈が国民に受け入れられるとすれば、それは国民のお上追随意識の高さ・主権者意識の低さを表しているのだ、とも言えるかもしれない。自分たちで決めていいことなのにお上の言うことを気にしているわけだから。マスコミのニュースを見ても、本来的には有権者が投票行動で解決すべき問題が、司法の冷たさや検察の手腕のなさの問題へとすり替えられている例が多くはないか。
 
ジェフ! よく投げた!