天木直人さんのサイトの更新が今日でおしまい。BBSにも書いてあるしご自身でも言っているけれども、この人は意見がブレることがあった上、右や左の評論家に比べると、言うことが何かにつけて実に素朴だった。いくつか行動も起こしたが成功していたとは言い難い。ただこの人の、ものを考えるということに対する態度にはちょっと共感していた。
一般に、いわゆる論客(評論家や学者など)やジャーナリストといった人種は、自分の立場の一貫性(論理の一貫性ではなく)、知識の該博さ、アンテナの感度の良さなどにこだわり、また、いつも何か他人と違うものを発信しなければという大喜利的強迫観念(なんじゃそりゃ)に終始突き動かされているようにみえる。そういう人たちのシゴトを見ると自分は大抵、「だから何?」「メシや自己顕示のために無理矢理こねくり出された問題意識に付き合わされたら俺ら一般人はたまらんよ」という感想ばかりをもつ羽目になる。対して天木さんという人は「結局どう考えるのがベストなのか」という点だけを素朴に考え続けており、結果として陳腐になること、周回遅れな意見になることを恐れない人だったと思う。また「自分の意見を発信するという営みが今の世の中ではまったくの徒労なのではないか?」という疑念を隠さずに吐露していたし、「自分の行動は手応えを得ている」と強弁することもほとんどなく、何の手応えも無かったことをよく率直に認めていた。精力的な活動が目立つブロガーさんたちは大抵前者の人種の流儀に倣いたい人、つまりはプチ論客やプチジャーナリストに見えるもので、そういった中にあって天木さんは新鮮にも見えた。
このまま行方不明になってしまわれるのは少々寂しいのだけれども、この人は、前々からそう宣言していたように、以後は自分の日常生活の範疇でできることだけをしようと決めたのだと思う。この人に限らず、今の世の中が上手くいっていないと考えるどの人にとっても、とるべき態度は同じなのかもしれないな、などとも思った。

(追記:天木さんの2月23日付けエントリー。消えないうちに貼っておく)

 読者の皆さんから多くのメールを頂きました。私は小泉首相と違って常に迷い、ぶれる人間です。従って多くの読者から、書き続けてほしいというメールを頂いて感動、感謝し、「書き続けるか」という思いになったりもしました。しかしやはり2月28日を持って私のHPは終わらせていただきます。
 自分が自らのHPを維持して書き続けるには、やはり覚悟と努力が必要です。そしていい加減なものを書きたくないというこだわりもあります。それを支えてきたのがこの国の政治や、世の中の不正義、不合理に対する怒りでした。しかし、しばらく日本から遠ざかって、再び日本の現状を目の当たりにした時、言いようのない違和感を覚えました。発言し続ける情熱がすっかり消えてしまったのです。書きたいことは山ほどある。この国の現状の不正義は加速度的に膨れ上がっている。それらを前にして、一日中それらに取り組んでいたら自分がダメになるということに気づいたのです。
 この国は間違いなく深刻で大きな問題にぶち当たります。それは小泉や安倍がどうのこうのという問題ではもはやありません。私の反権力のエネルギーの源は小泉批判でした。なぜならば彼は間違った首相であり、この国を壊す首相であると見抜いていたからです。警鐘を乱打したかったのです。残念ながら彼は分不相応に長い間首相の座にとどまりました。彼の5年間の無責任な政治が、危機に瀕していたこの国を正常にもどせるかどうかのわずかなチャンスさえ奪い、この国の息の根を止めてしまいました。
 さすがの小泉首相の任期も残り少なくなり、もはやあと半年、何も出来ないでしょう。パフォーマンスさえ白々しくなっていくでしょう。それがわかっているにもかかわらず、彼は任期をまっとうするでしょう。国民もそれを許すでしょう。ここにこの国の政治の最大の問題があります。それを許すメディア、国民の救いがたき間違いがあります。もっと危機意識を持たなければ為らないのです。過ちを改めるには一日でも、一刻でも無駄にすべきではないのです。もっと真剣にこの国の将来を考えなければならないのです。世界の動きに目を向けなければならないのです。未だに靖国参拝の問題が繰り返し報じられるような日本、拉致され、助けを求めている国民に何も出来ない国が救いようのない異常な国であるということに気づかなければならないのです。
 この半年間は今までの5年間以上に重要な時期です。国際情勢も国内問題も、深刻な問題が加速度的に進んでいく半年になります。それにもかかわらず日本の政治もメディアも国民も、何とかしなくてはならないという切迫感が皆無であり、テレビでは深刻なニュースがすべて言いっ放しのワイドショー化となっています。
 そういう状況の中で自分は、我々はどうすればいいのか。それはしばし言論を止め、これから起きるであろう激変の世の中を、息を殺して見守る事だと思うのです。そして起きうる大混乱の犠牲者にならないように、巻き込まれないように、各人が自己防衛をはかりつつ、大混乱から生ずるあらたな日本の国づくりに備えてエネルギーを蓄積し己を磨くことです。
 それは必ずしも選挙を繰り返したり、新たな政党に参加したりといった、従来の政治活動である必要はありません。むしろ従来の政治から決別するところから何かが生まれるのかもしれません。今の日本の政治を見ていると、政治そのものが壮大な不良債権と化し、財政赤字の元凶となっていると思うのです。テレビでしゃべっている政治家の誰一人として立派な者はいない。それどころか平凡だけれども毎日を真摯に生きている一般国民よりはるかに劣った人たちばかりです。ましてやテレビに出ていない政治家は、多額の税金を掠め取りながら一体我々に何をしてくれているというのか。極端に言えば政治家そのものが不要なのです。今の日本の政治そのものが不要なのかもしれません。
 そう考えたとたんに政治批評を続ける事自体がエネルギーの無駄であると気づいたのです。政治評論家や政治ジャーナリズムは政治で飯を食っている人たちですから、彼らが政治を語る事は、IT関係者がITビジネスに奔走したり、医者が患者を診たり、小説家が本を書いたり、農業従事者が農作物をつくったりするのと同じことです。我々はそれぞれ生きていくために働き、生活費を稼ぎ出す必要があります。そしてそのような様々な人たちの日常的な営みの中にこそ人生の本質があり、尊さがあるのです。私は残された人生をもう一度地面に足をつけた生き方をしてみたいと思うようになりました。
 その場合にどうしても大切にしなくてはならないのは、平和であり、公正さであり、権力の横暴に対する断固たる抵抗です。私はもはや日本の政治には関わるつもりはありませんが、改憲をさせないこと、米国の戦争に断固反対すること、沖縄問題に象徴される日米軍事同盟の呪縛からの解放を実現することだけは訴えていこうと思っています。
 2月28日まであと何本書くことになるかわかりませんが、それらをもって私の「メディアを創る」の最終章にさせて下さい。書き始めておよそ11ヶ月、累計100万数を越える見知らぬ無言の読者の方々には、改めてここで御礼を述べさせていただきます。皆様の無言の声援なくしては、私は一日たりとも書き続けることは出来なかったと思っています。私が毎日画面に向かって書き続けて居た時、常に向かい合っていたのは、そのような見知らぬ無言の読者でした。そしてそれはもう一人の自分でもありました。私はそのような読者の皆さんとこれからも一緒に歩んで生きたいと思っています。